一般標榜といっても決して簡単なものではない。まず、日本医学会の分科会に入ることが必要と言われた。医学会というのは日本医師会の下部組織で、これに入れば臨床の学問分野として一人前と認められたことになる。そのためには四年に一回の評議員会で、全評議貝の七割の賛同を得る必要がある。各学会から一名の評議員がでるが、当時一〇〇の学会が加盟していたので、七〇人の評議員の票を得なければならない。これが至難の業である。新規の学会が増えても、既存の学会が不利益を被るわけでもないのに、何か権威が薄まるという感覚なのか、なかなか新規の参入を認めようとしないのである。僕たちは猛運動を始めた。選挙は勝つか負けるかしかない。勝つためには足で稼げ。一票でも多くと、森本理事長(当時京大教授)に、田中角栄ばりにはっぱをかけられ、四、五人で手分けして、一〇〇人の評議員全員の家を、三回ずつは回らされたがおかげで、高得票で当選する事ができた。その際、絶えず問題にされたのは美容外科との関わりであった。美容外科を抱えているなら医学会は相手にしないという態度である。そして全会員は美容の手術を自粛するよう、医師会会長から厳しい指導があった。ちょうどその期間に、日本で国際美容外科学会(ISAPS)の集まりを開きたいという要望があり、それを受けた大森先生が、形成外科学会の反対を押し切る形で開催されたのを思い出す。そして翌一九七五年、法律改正により、形成外科は神経内科とともに晴れて標榜科になった。ただしその際には行政指導があり、当時の日本医師会会長の武見太郎氏の強い意向として、「美容整形のようないかがわしい行為は診療行為に含めない」という一札を、形成外科学会理事長名で提出させられた。
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